第20話   継 竿   平成16年08月25日  

和竿に代表される竿は、その殆んどが継竿である。ただし、延べ竿と継竿のどちらが良いかとなると一長一短でどちらが優れているか等とは断定出来るものではない。

しかしながら、釣竿の原点は古来延べ竿であったと云うのは間違いのない事実である。魚信をはっきりと捕らえるには、元々一本の竹で作られている延べ竿が最高であると云えよう。一度でも延べ竿を使ったことのある人だったら、その違いがはっきりと分かるに違いない。

元々釣竿は一本の竹で作られて来た。所謂延べ竿と称する物である。それが何故、何時の間にか継竿が主流となってしまったのか?

江戸和竿の販売は江戸時代の中期の天明年間(
17811788)に秦地屋東作が江戸は下谷稲荷町の広徳寺前で和竿を販売したのが始まりとされている。秦地屋東作は数本の竹を組み合わせ一本の竿にして、継口に絹糸を撒きその上に漆をかけ補強したもの販売した。それが現在の江戸和竿の始まりとされている。きっとそれ以前からそのような技術があったものを東作が集大成し、商売として成り立たせたものに違いないと考えられる。

その特徴は数種類の竹の選別から始まり、釣る対象の魚に合わせ「切り組」という工程を行う。そして一本の竿を完成させるためには10もの工程を経て完成させたと云う。それでは何故、数種類の竹に切込みを入れて一本の竹竿を作ったのであろうか?

単純に考えて釣り人の増加に応え同じような竿の大量生産を可能としたこと、運搬の容易な竿作りがより簡単に出来ること、数種類の竹を使うことにより客の好みに応じた竿の調子が出せることが最大のポイントではなかろうか?竿師が一本の竹で完成された良竿を作ろうとしたら、それ自体が大変な作業である。一本の竹で良い竿に出来る竹を探すと云うことは、それ自体で手が一杯となり商売とする肝心の竿作りの仕事が出来なくなるであろう。それではある程度の本数の竿を作り販売しないと生活が成り立たず商売とはならない。しかも、商売上客の好みに応じた竿も作らなければならない。

和竿の継ぎ方には、印籠継ぎと並継ぎが代表的な継ぎ方である。結果として各々の特徴があるものの、どうしても延べ竿と比較して竿の径が太くなり勝ちで、本来竹の持つ元々の調子が出ない事も事実ある。しかし、携帯には便利であり、慣れてくれば使えないものではない。第一に竹の特性を熟知していれば、釣師の好みの調子に合わせることが可能であったから、継竿でも継竿ならではの釣味も出てくる。

その点ニガダケで作られた庄内竿の場合、釣好きの武士たちが中心となり自分の竿は自分で作ると云った気風があり一本の竹で作られた延べ竿を庄内竿と云った。継竿等はもっての他で、飽くまでも一本の竹で作ることにこだわりを持っていた。一本の竹で竿を作ることに固執したのは、ニガダケという細身で強靭な竹が身近にあったからと云う他に、武士が作った竿であったからに違いないし、一本の竹に精魂込め手間隙を惜しまずに鍛え、竿作りに専念出来る時間があったからであろう。良い竹を求めて庄内中の竹薮を探し数本の良い竹を採ってきて、それを数年かけて良い竿に仕立てる。こんな事を商売でやっていては、生活が成り立たなかったに違いない。竿師と釣師を兼ねたのが庄内の武士達であった。そんな庄内にも竿師なるものが生まれたのが、1800年初頭に生まれた陶山運平である。陶山家の五男であった釣好きの彼は、分家せざるを得ず手が器用であった事で竿作りを生業としたと云う。細く長い本調子の竿を根から穂先まで一本の竹を独自の技法を用いそれを数年かけて鍛え、これが庄内竿だというものを完成させた。以来、その延べ竿の作り方を基本にして盛んに作られてきた。

しかしながら、明治末期から大正にかけて便利で早く遠くへ釣に出かけられる交通手段の発達と共に、24m位の竿ならいざ知らず67mという黒鯛を狙う長い延べ竿は邪魔なものとなって来たのは当然の成り行きである。そこで考えられたのが、大正時代に鶴岡の大八木釣具店の大八木式のパイプ継ぎの継竿である。それは一本の延べ竿を二つ、もしくは三つに切り管継ぎで継いだものであった。切り口の問題とパイプの重量で竿の調子が変わったものの、携帯性に優れているという便利さが受けて売れに売れた。当時釣師の間に賛否両論が起こり、管継ぎ派と延べ竿派に分かれ大いに議論が戦わされたという。しかし進歩的な釣師により管継ぎの竿が次第に認められて来るに従い、昭和初期に竿師山内善作がもう一工夫して管継の竿が完成した。彼は竿が多少重くなるのは仕方がないにしても、竿の調子の狂いを最低限になるように工夫し、現在の螺旋式真鍮パイプ継ぎに変えたのであった。

螺旋式真鍮パイプ継ぎが開発された後、昭和20年代の前半に今度は竿にピアノ線で穴を刳り貫き手元に同軸リールを付けた中通し竿が開発された。この竿もまた釣師の間で賛否両論が起きたが、大型黒鯛を釣るのに便利なこの竿は戦後の庄内の釣ブームを背景に盛んに作られた。この頃になると釣師、竿師の世代交代もあり、従来の継竿は延竿の範疇に入るようになっていた。しかし同じ継竿の延長線上にある中通し竿は、今もって延竿とは云われていない。同じ庄内産の竹で工夫し作られた竿であり、庄内竿として認めて上げても良い時期になって来ているようにも考えられる。事実庄内釣りの継承者と自認する人たちの間でも中通し竿と共に釣技を磨いてきた人たちも多く見られ、対象魚や磯場によっては中通し竿を使っている方も多い。自作なされている方の中には依然嫌われていた後家竿も多く見られる。



庄内竿=根付きの延べ竿(一本竿)、根付きの継竿(一本竿を2〜4つに切り、螺旋式真鍮パイプ継にしたもの)
庄内中通し竿=根付きの継竿にピアノ線で穴をくり抜いて手元に小型同軸リールを付けたもの

後家竿=同じ一本の竹で作らずに、傷が付いているとか調子を整える為に他の竹を使って一本の竿にしたもの